新古典主義から印象派の始まりまでざっくり解説(後編)



前編はこちら

マネによるイノベーション

ドラクロワのロマン主義的な芸術手法。クルーベの写実主義的な姿勢。それらを融合させ印象派への扉を開いたのがマネでした。


上の「アブサンの酒飲み」という作品では当時のパリっ子の日常風景を描いています。それとナポレオンの絵と比べてグラデーションによる立体感の強調といった伝統的手法も取られていません。

保守派vs急進派

と、このように新しいスタイルの絵画を描き上げたマネだったのですが、保守的なアカデミーはサロンへの出展を認めずはねつけます。当時はアカデミー認可の展覧会のみが作品を発表できる場所でした。


でも、彼は一人じゃありませんでした。彼と同じように新しいスタイルを試して門前払いされた画家がたくさんいました。


守派vs急進派の間で火の粉がバチバチしている構図です。そんな状況を見たナポレオン三世は「このままだと暴動とかおきんじゃねぇの…」と危惧し、1863年にアカデミーにより否定されたアートのための展覧会(Salon of the Rejected)を特別に開きます。


どっちが正しいのかは民衆に決めてもらおうぜっていうスタンスです。まぁ、民衆はそんなにアートに興味があるわけでもなかったのですが。


しかし、結果として若くて前衛的な芸術家たちはアカデミー以外の作品発表の場所を手に入れました。そこで、マネの「アブサンの酒飲み」は注目を集め、後に印象派と呼ばれる画家たちに大きな影響を与えます。


つまり、マネはロマン主義や写実主義といった芸術のスタイルから印象派へと橋渡しした第一人者なのです


印象派を支えたもう一人の人物

1863年は現代美術において飛躍の年でした。しかし、もう一つ特筆すべきことがあります。それは、フランスの詩人、作家、芸術批評家のボードレールによるThe Painter of Modern Lifeが出版されたのです。ボードレールは「惡の華」で最近注目を集めてますね。


テクニックや姿勢などでドラクロワやクルーベが印象派の画家達に影響を与えたとするならば、ボードレールは理論面で大きく貢献しました


彼は主張しました。現代のアートというものは過去についてではなく現代生活を描くものであるべきであり、「今・ここ」という日常から普遍的なものを抽出する作業こそがアートの本質的な目的であると。


そしてそのためには、外に行き我々の日常を観察し、思考を巡らせ、感じて、記録することが大切だと説きました。


このボードレールの主張があったからこそ、マネはアカデミーを無視して自分のスタイルを貫くことができたのです。



以上、印象派までの大きな美術史の流れを2回にわけて解説しました。今後はこれ以降の現代アートの流れを中心的に書いていきます。


ここまでの流れを踏まえて、ことごとくルールを壊した印象派と現代美術の始まりを読んでみてください。さらに理解が深まると思います!




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